岡田時彦



岡田時彦(おかだときひこ 本名:高橋英一 1903年2月18日生)
 [俳優]


 東京生まれ。父の放浪癖のため、幼いころから川崎に3年、茅ヶ崎に1年、その後逗子に移るなど各地を転々とする。友人もなく孤独な少年だった。逗子開成中学校には抜群の成績で入学するも、伊勢佐木町のオデオン座で観たアメリカ映画『名金』(1915年)に感動して、やがて学業そっちのけで浅草六区にまで足を伸ばす程映画に熱中するようになり、家族の猛反対を押し切って中学を中退し映画の道へと進む。

 1920年4月に横浜の映画会社「大正活映」の俳優募集に応募し、17歳で入社する。同年11月19日、ハリウッドでの俳優経験をもつトーマス・栗原監督の『アマチュア倶楽部』(1920年)で映画デビューを果たす。本名「高橋英一」名義で何本かの映画に出演し、同社文芸顧問として脚本を担当していた谷崎潤一郎にかわいがられ、「岡田時彦」という芸名をもらう。

 「マキノ等持院撮影所」、「帝国キネマ」などを経て、1925年に「日活大将軍撮影所」に入社する。そこで、溝口健二監督の『紙人形春の囁き』(1926年)や、ハリウッド俳優出身の阿部豊監督の『足にさはった女』(1926年)などに出演し、その演技力に対する評価は高まっていった。岡田嘉子や入江たか子、夏川静江らの人気女優と次々と共演し、日本の現代劇映画における近代的な二枚目像を確立した。

 1929年に「松竹蒲田撮影所」へ移る。小津安二郎監督の信頼を受け、『その夜の妻』(1930年)、『お嬢さん』(1930年)、『淑女と髭』、『東京の合唱』(1931年)、『美人哀愁』(1931年)などに出演し、どこにでもいるような小市民を飄々と演じきり、新境地を開拓した。

 1931年9月、28歳のとき、当時の松竹の人気俳優、鈴木傳明、高田稔らとともに退社し、不二映画社およびその撮影所「不二スタジオ」を豊島園に設立、阿部豊監督の作品に主演するが、1年足らずでまもなく解散。また私生活では宝塚歌劇団を1932年限りで退団した田鶴園子と正式結婚、翌1933年には鞠子(女優・岡田茉莉子)が出生した。

 その後、かつて不二映画社の作品を配給した「新興キネマ京都太秦撮影所」に入社し、溝口健二監督の『瀧の白糸』(1933年)、『祇園祭』(1933年)などに出演するが、この頃から持病だった結核の悪化によりスクリーンより遠ざかり、その年の12月には大阪の赤十字病院に入院。年末にいったん小康を得たものの、翌1934年1月16日、31歳の誕生日目前に息を引き取った。

 時彦逝去時、娘の茉莉子はまだ満1歳を迎えたばかりで父の記憶はなかった。以後茉莉子は田鶴が女手ひとつで育て上げた。

 1934年1月16日死去(享年30)


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