東久邇成子



東久邇成子(ひがしくにしげこ 1925年12月6日生)
 [昭和天皇と香淳皇后の第一皇女]


 1925年12月6日午後8時10分、皇太子裕仁親王と同妃良子女王の第1子として誕生。12月12日、命名の儀が行われ『易経』より「恒」を由来として「照宮成子」と命名された。大正天皇・貞明皇后の初孫として国民から盛大な祝福を受け、民間でもさまざまな祝賀が行われた。特に翌3月30日にはじめて参内し大正天皇・皇后と対面した際には、沿道に大勢の市民が集った。

 夫妻の意向もあり、里子には出されず両親の元で養育される。当時としては画期的なことであった。しかし、その後昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育ったという批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定。翌1932年4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。

 1937年頃から休暇の際には全国各地を単独で訪問するようになる。成子内親王は生物学に関心を持ち、父天皇の研究所での勤務を希望していたと言うが、1941年5月に東久邇宮稔彦王の第一男子:盛厚王との婚約が内定。1943年3月に女子学習院中等科卒業。学業成績は極めて優秀だったが、高等科へは進学せず花嫁修業をする。

 1943年10月2日に納釆の儀。同年10月12日、結婚を控え勲一等宝冠章を賜り、翌日の10月13日に盛厚王と結婚する。第二次世界大戦中であり、皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われた。着用した十二単は、母・香淳皇后のものだった。姉妹の中では体格が香淳皇后によく似ており、結婚の際に体の寸法を測ったところ、皇后の結婚当時の体型とピタリと一致したという。成子内親王の意思は考慮されていない結婚であり、後に当時の心境を「悲しみもなく、不安な気持ちも、嬉しい気持ちもありませんでした」と語っている。夫となった盛厚王とは見合いを経ずに結婚したため、夫婦として心を通わせるのに時間がかかったという。ただ、盛厚王は真面目な人だったため2年ほどして互いに愛情がわいた、とも語っており、それなりに円満な家庭を築いた。1945年3月9日、初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産した。盛厚王との間には、信彦王、文子女王、基博、真彦、優子の5人の子供をもうけた。

 結婚相手が皇族であった為、成子内親王もまた皇族のままであったが、1947年10月14日、東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、新皇室典範第13条の規定により夫盛厚王と同時に皇族の身分を離れた。皇籍離脱後は終戦後のインフレ等のきびしい社会情勢の中、皇族としての身分も経済的特権も失い、厳しい家計を内職をしながら助けたり、都内遠方でも商店街の特売に人目を忍んで並んだりと元皇女とはいえ一般家庭の主婦並の苦労も多かった。

 1960年11月に病に倒れ、結腸癒着と腹壁腫瘍と表向きは診断されるが、実際には末期がんであった。1961年4月より宮内庁病院に入院し、両親である天皇・皇后も頻繁に見舞いに訪れる。特に皇后はほぼ毎日訪問していた。5月7日、昭和天皇の還暦祝いのため皇居を訪れたのが最後の外出となったが、すでに衰弱し、宴の最中も後方のソファに横たわりながらの状態であった。7月19日夕方から容体が悪化し。7月23日午前3時15分、家族のほか、両親である天皇・皇后、皇太子夫妻ら弟妹の見守る中息を引き取った。まだ35歳の若さであり、天皇・皇后とも大きな衝撃を受けた。

 7月26日に葬儀が青山葬儀所で執り行われた後、遺体は火葬された。8月4日に斂葬の儀が行われ、文京区の豊島岡墓地に埋葬された。彼女の墓所の左右には、香淳皇后の指示によって紅梅が植えられた。没後40年にあたる2001年7月23日には、弟である今上天皇と皇后が拝礼した。

 1961年7月23日死去(享年35)





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