松田直樹



松田直樹(まつだなおき 1977年3月14日生)
 [サッカー選手]


 群馬県出身。小学1年からサッカーを始めた。前橋育英高校時代には、3年連続で全国大会に出場。高校卒業後、横浜マリノスへ入団し、ルーキーシーズンであった1995年3月18日に、DFとして開幕スタメンに抜擢。同年9月30日、プロ初得点。1998年以降はレギュラーに定着している。U-16日本代表に招集されて以来、各世代の日本代表に選出されている。1996年のアトランタオリンピック、2000年のシドニーオリンピック双方の代表に選出され、年齢制限のあるサッカーのオリンピック日本代表としては、数少ない2大会連続出場選手となっている。

 トルシエジャパン時代はフラット3と呼ばれる3バックの右サイドで不動のレギュラーであり、2002年の日韓W杯ではベスト16入りに貢献した。ジーコジャパンになってからも当初は代表に呼ばれていたが、2005年3月30日のドイツW杯アジア最終予選バーレーン戦以降、代表には呼ばれていない。しかし、ジーコ監督時代は代表の守備陣で180cm以上の選手が少なく(スタメンは中澤佑二のみ)、高さとフィジカル、経験という点で国際試合で心配だという声もあり、日本代表復帰を望む声も少なからずあった。しかしジーコと起用法を巡って衝突したため、招集されなかった。

 2006年には横浜F・マリノスのチームキャプテンに就任した。2007年シーズンは、怪我で出遅れ、守備的MFとしてヤマザキナビスコカップ大宮戦で復帰した。この試合では、途中交代の際、早野監督との握手を拒否する、試合出場中に監督からの指示を仰ぐ時、顔を睨み付ける様な態度を取っていたなど、監督との確執が起きていたようである。その後は出場機会に恵まれず、ベンチ入りこそするが出場はなく、第16節のG大阪戦でセンターバックとして先発し、漸くリーグ戦初出場を果たした。この試合では39試合連続得点中のG大阪を無失点に抑えた。その後、第18節大分トリニータ戦で、リーグ戦300試合出場を達成。2008年からは河合竜二の負傷により、守備的MFに抜擢された。起用理由について当時の桑原隆監督は「経験からして松田以外には考えられなかった」とのこと。最終ラインを守るチームメイトからは「DFの前にDFがいる」と頼りにされ、当時浦和でボランチにコンバートされていた闘莉王のように高く評価されている。河合復帰後もDFとMFの日替わり起用に柔軟な対応を見せた。

 2009年に自叙伝『闘争人』を出版。シーズンオフの契約更新では引退までマリノスでプレーしたいとコメントしていた。2010年は以前から慢性的な怪我を抱えていた右ひざの手術を行った影響で出遅れ、13節広島戦で後半開始から交代でプレーしたのがシーズン初出場となった。初先発となった17節の仙台戦ではショートコーナーを折り返した小野裕二の落としでゴールを決めた。その後はイエローカードの累積による出場停止となった24節仙台戦以外は最終節34節まで全試合にほぼ先発で起用された。シーズン終了後にマリノスから戦力外通告を受け退団が決まった。以前からマリノスで現役を終えたいと述べていた松田への戦力外通告に関してサポーターの一部がクラブハウスに押しかけ、クラブの担当者による緊急の説明会が開かれる一幕もあった。また、サポーターによって集められた再契約嘆願の署名数は2万を超えた。

 2011年にはJFLの松本山雅FCと契約。背番号はマリノス時代から引き続き3番をつけた。同年8月2日午前、同チームの練習開始後、「やばい、やばい・・・」という言葉とともに突然腰から崩れ倒れこんでしまった。倒れた直後は意識があったものの病院に運ばれる途中に意識が無くなり、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院高度救命センターに緊急搬送された。病名は「急性心筋梗塞」と発表された。人工心肺を付け、途中心拍が微弱ながら戻ったものの、8月4日午後1時6分頃、家族に看取られながら死去。1男2女の父であった。この年は、自身最後の試合となった同年7月23日のJFL後期第4節Honda FC戦(アルウィン)を含む15試合に出場、1得点を挙げた。

 8月9日、出身地である群馬県で告別式が営まれ、2002年のW杯日韓大会での同僚や監督として率いたフィリップ・トルシエ氏らが参列し、突然の早過ぎる死を悼んだ。サポーターのために設けられた焼香台に並ぶ列も告別式が終わるまで途切れることはなかった。

 情に厚く類まれな熱血漢であった。親分気質で中澤佑二とともに練習中にミスを犯した若手選手に対して厳しく指導する。その一方で練習後やオフには若手選手を食事や旅行に誘うなど面倒見が良い。激しいプレースタイルと気性の荒さが仇となり警告処分が非常に多かった。退場処分も多く、2009年終了時点で通算8回を記録した。横浜Fマリノス退団後もファンの人気は絶大で、移籍先の松本山雅FCでは、例年数百枚程度しか製作していなかったチームのレプリカユニホームへの注文が殺到し瞬く間に完売となり、地元のサポーターでも購入できないという現象が発生。結局、2011年シーズン開幕後も品薄状態が続き、予約注文で対応するという事態となっていた。

 2011年8月4日死去(享年34)


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