レイ・チャップマン



レイ・チャップマン(Ray Chapman 1891年1月15日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]


 ケンタッキー州ビーバーダム生まれ。1911年7月に、マイナーのダベンポートからクリーブランド・ナップスに入団。翌年メジャーにデビューし、31試合出場、.312の打率を残す。翌年からレギュラーの遊撃手として試合に出場するようになり、守備とバントの上手さを発揮するようになった。犠打数がリーグ最多となったのは1913年、1917年、1919年の3度を数え、1917年に記録した犠打数67はメジャーリーグのシーズン記録である。また遊撃手としての刺殺数がリーグ最多を記録した年が3度(1915年、1917年、1918年)あり、1917年には補殺数も528(リーグ最多)を数えた。

 盗塁王になったことはなかったが、1917年にはリーグ3位の52盗塁を記録し、これは1980年までインディアンズのチーム記録として残った。また同じ1917年にリーグ4位の三塁打13本を放っている。1918年にはリーグ最多となる84得点を挙げた。

 1920年8月16日、ポロ・グラウンズで行われたニューヨーク・ヤンキース戦の5回表、打席に立ったチャップマンはカール・メイズ投手の投げた球を頭部に受け昏倒する。当った瞬間、乾いた大きな音がしたため、投手のメイズはバットのグリップエンドに球が当ったものと思い、跳ね返ってきた球を処理して一塁に送球。一塁手のウォーリー・ピップは捕球後に初めて異変を察知したという。夕暮れの時間帯であったこと、メイズがスピットボールを得意とするアンダースローであったことなど複数の要因が重なり、ボールを視認することが困難であった(事故の目撃者によれば、チャップマンは避ける素振りさえ見せなかったという)こと、更にチャップマンが極端に前傾した構えを取る打者であったことが事故の原因として考えられる。

 チャップマンは死球を受けてから12時間後の8月17日午前4時40分に、収容されたニューヨークのセントローレンス病院で亡くなった。彼は試合中の事故が原因で死亡した大リーグ史上二人目の選手となった(1909年にマイケル・ライリー・パワーズ捕手がファウルボールを追って壁に激突したことが原因で死亡している)。

 この悲劇の後、スピットボールの禁止と、試合中に汚れたボールは審判によって交換されることがルール化された。また、彼の死は打席でのヘルメット着用が普及することのひとつの契機ともなった。

 1920年8月17日死去(享年29)


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