飯沼正明



飯沼正明(いいぬままさあき 1912年8月2日生)
 [パイロット]


 長野県生まれ。所沢陸軍飛行学校を卒業後、朝日新聞社に入社した。1937年4月6日、塚越賢爾機関士とともに純国産機・神風号で立川飛行場を出発し、15357kmの距離を飛行時間94時間17分56秒の飛行の後ロンドンに到着した(ヴィエンチャン、カルカッタ、カラチ、バクダッド、アテネなどを中継)。1937年、朝日賞などを受賞した。

 1941年、東京〜ニューヨーク間の記録に挑戦しようとするが、その矢先に真珠湾攻撃の報がもたらされ、絶句して色を失った飯沼は、プノンペンの飛行場の滑走路にふらふらと出て、軍用機のプロペラに挟まれ死亡した。

 プロペラの直撃で顔が激しく損傷し見分けがつかないほどに崩れたため、当初は一体この被害者が誰であるか、わからなかったという。数時間後、顔見知りの記者が遺体の確認に駆けつけて、持ち物の名前から、ようやく飯沼と判明した。

 彼の死は事故死ではなく戦死として発表され、「血染めの操縦桿」という美談が作られた。
“空の飯沼”壮烈の戦死「飯沼飛行士は十二月十一日某重要任務を受け北部マレー方面の作戦に出動。防空砲火の弾幕をくぐって任務を遂行中、不幸敵の一弾は機を貫いて飯沼飛行士に命中し重傷を与えた。致命傷を受けた飯沼飛行士は一瞬たおれかかったが、旺盛なる責任感に勇を振い起し、血みどろになった操縦桿をしっかりと握り、基地へ、基地へと飛翔し続けた。出血はなおも甚だしく幾度か、意識を失わんとしたが、その都度任務の重大さに決死の操縦桿を握りしめたのであった。かくて消えんとする意識を鼓舞しつつ辛うじて基地に帰還。鮮血に染まる飛行服で重要任務を報告。無事責任を果してばったり倒れ遂に壮烈護国の鬼と化したのであった」

 1942年2月8日、飯沼の遺骨は、塚越に抱かれて日本に帰国。10日には、東京の青山斎場で社葬が執り行われた。

 1941年12月11日死去(享年29)


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