ディディエ・ピローニ



ディディエ・ジョゼフ=ロヴィ・ピローニ(Didier Joseph-Lovis Pironi 1952年3月26日生)
 [フランス・レーシングドライバー]


 ヴァル=ド=マルヌ県のヴィルクレネに生まれる。F3、F2など下位フォーミュラーを経て、1978年にティレルからF1にデビュー。2戦目となる第2戦ブラジルGPで初入賞(6位)、これを含め計5回(5位2回・6位3回)の入賞を記録した。ポイントではチームメイトのパトリック・デパイユに圧倒されたが、完走率では上回り、新人らしからぬコンスタントな走りを見せた。1979年もティレルに残留し、第6戦ベルギーGPにて3位初表彰台を記録。しかしチーム力は低下しており、新たなチームメイトであるジャン=ピエール・ジャリエ共々苦戦。結果的に前年度の成績は上回ったものの(3位2回・4位1回・5位2回)、2年目としては不満の残る内容となった。

 1980年から、フランスに本拠を置くリジェに移籍。前年まで乗っていたティレルに比べマシンの出来がよく、シーズン開幕から予選・決勝共に好位置に付け、第5戦ベルギーGPでは予選2位から初優勝。続く第6戦モナコGPでは、決勝はリタイヤとなったものの予選で初ポールポジションを獲得した。2度目のポールポジションを獲得した第8戦イギリスGPでは、決勝で初ファステストラップをマーク。その後第13戦カナダGPで2度目のファステストラップを達成している。この年はエースのジャック・ラフィーと遜色ない成績を挙げたが、ピローニはリジェのマシンの競争力に納得がいかず、1年限りでチームを去る。

 1981年からは、名門フェラーリに在籍することになり、既にF1界のアイドルとしての地位を固めていたジル・ヴィルヌーヴと組むことになる。この年のフェラーリは戦闘力が低く、4位1回・5位3回と表彰台すら無い不本意な成績となり、またヴィルヌーヴの速さの前に後塵を拝することが多かった。とはいえ事故やリタイアも多いヴィルヌーヴよりも上位の成績でゴールすることも次第に増えていった。1982年シーズンは、それまでから続くFISAとFOCAの対立という運営の混乱もあり、当初から荒れていた。そんな中、第4戦サンマリノGPではマクラーレンやウィリアムズといった英国系チームがボイコット、レースは14台の出走で行われた。3位以下に大差をつけ1-2体制を築いていたフェラーリ陣営だったが、2位だったピローニはチームの指示(順位が固まったらチームメイト同士で抜き合わない)を無視し、トップのヴィルヌーヴを最終ラップで抜いて優勝。チームオーダー無視という行為を行ったピローニにヴィルヌーヴが激怒し、両者の関係は極度に悪化した。

 サンマリノGPの2週間後、ゾルダーサーキットで第5戦ベルギーGPが行われた。予選2日目の終了直前、自らのタイムをピローニに破られたヴィルヌーヴは再びタイムアタックを開始した。ピローニのタイムを上回れなかったヴィルヌーヴは、チームから出されたピットに戻る指示に従わずにアタックを続け、スロー走行中のヨッヘン・マスに追突した。ヴィルヌーヴのマシンは宙を舞い、シートもろともマシンから脱落し、地面に叩き付けられてヴィルヌーヴは死亡した。フェラーリチームは喪に服し、決勝レースへの出走を取りやめた。

 その後、ピローニは第8戦のカナダGPでポールポジションを獲得したが、決勝スタート時にエンジンストールを起こし立ち往生し、そこに後続のリカルド・パレッティが激しく追突してしまった。ピローニはほとんど無傷だったが、激突の衝撃とマシン炎上によりパレッティが死亡した。サーキットは、1ヶ月ほど前に事故死した地元の英雄の名を取って「イル・ノートル・ダム・サーキット」から、「ジル・ヴィルヌーヴ・サーキット」と改称されたばかりだった。

 その後、ピローニは混戦の中で堅実に入賞しポイントを重ね、ポイントリーダーに立った。しかしホッケンハイムで行われた第12戦ドイツGPで大事故に遭遇する。豪雨の中行われた土曜日のフリー走行で、ピローニはアラン・プロスト車の右後輪に追突。マシンは宙を舞い大破した。皮肉なことに事故の形態はゾルダーでのヴィルヌーヴとほぼ同様だった。ピローニは一命は取り留めたものの、衝撃で変形した車体に押しつぶされ、両足に複雑骨折の重傷を負う。この怪我でピローニのF1キャリアは絶たれることとなった。ピローニは事故の際、意識を失わなかったため、いつ炎上するか分からない状態でマシンに閉じこめられる恐怖を味わった上、救急隊員の「足を切断しないと助け出せないかも知れない」といった緊迫した会話を全て聞くことになってしまった。ピローニがドイツGP予選1日目に記録したタイムはポールポジションに相当するものだったが、もちろん決勝レースに出走することはできなかった。その後も複雑骨折した脚が回復せず後半戦には出場できなかった。それにもかかわらず、ピローニは最終的に1982年のドライバーズランキングで2位となった。

 その後、必死にリハビリを重ねたピローニは1986年にAGSチームのテストを受けるなどF1への復帰を目論むが、ピローニを採用するチームはなく、F1復帰は果たせなかった。1987年にパワーボートに転身し世界選手権に出て活躍、一時は本気でレギュラーシートを狙っていたという。しかし、8月23日のサウサンプトン沖ワイト島近郊で行われたパワーボートの世界選手権中に大事故を起こし転覆、同乗していたクルー2名と共に他界した。カンヌのグリモー墓地に埋葬された。

 ピローニの死後に生まれた双子の子供には、双子の母親のカトリーヌ・グーにより「ジル」と「ディディエ」と、2人のファーストネームがつけられた。

 1987年8月23日死去(享年35)


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