ロニー・ピーターソン



ベンクト・ロニー・ピーターソン(Bengt Ronnie Peterson 1944年2月14日生)
 [スウェーデン・レーシングドライバー]


 エーレブルー出身。カートレースで国際チャンピオンになった後、1968年、1969年にスウェーデンF3を連覇。その才能が新興コンストラクターのマーチの目に留まり、1970年にはF2に参戦しつつ、マーチよりF1デビューを果たす。1971年にはF2のヨーロッパチャンピオンを獲得。F1では4回の2位を含む5回の表彰台獲得の活躍を見せ、この年のチャンピオンであるジャッキー・スチュワートに次ぐ選手権2位となった。1972年はマシン開発の混乱により3位表彰台1回のみと足踏みする。1973年にチーム・ロータスに移籍したピーターソンは才能を開花。ロータス・72を駆ってポールポジション9回・優勝4回とエース級の活躍を見せるが、惜しくもスチュワート、エマーソン・フィッティパルディに次ぐ選手権3位に終わった。


翌1974年はフィッティパルディの移籍によりロータスの主力になったが、この頃より良いマシンに恵まれない不運がつきまとうようになる。この年は3勝して選手権5位と踏ん張ったものの、1975年は精彩を欠き12位に終わる。1976年序盤にロータスを飛び出しマーチに移籍するが11位と低迷。1977年にはティレルへ移籍し6輪車、P34のステアリングを握るがタイヤ開発問題のためにマシンから戦闘力が失われており、ベルギーGPでの3位表彰台以外は目立った活躍は見せられず、この年の選手権は14位と散々な成績に終わった。

 1978年に再びロータスへ加入。マリオ・アンドレッティと共に本格的ウイングカー(グラウンド・エフェクト・カー)であるロータス・79をドライブ。チームメイト同士のチャンピオン争いを繰り広げたが、実際にはアンドレッティがナンバーワンというチームオーダーが存在したと言われ、ピーターソンはアンドレッティを補佐する役目を受諾していたらしい。これはF1にほぼ独占的にタイヤを供給していたグッドイヤーが、アメリカ人がチャンピオンになることを望んでいたためという(アンドレッティはイタリア系アメリカ人)。瞬発的な速さはピーターソンの方が明らかに上という評価もあったが、ピーターソンはチームオーダーを厳守し、レースではアンドレッティを先行させていたと言われる。なおアンドレッティは後年のインタビューで「チームオーダーは存在しなかった(自分が実力でチャンピオンを取った)」と発言している。アンドレッティはチャンピオン獲得と同時にF1を引退する予定で、翌1979年にはピーターソンがナンバーワンとして思う存分に速さを発揮してもいいと約束されていたとの噂もあった。だがピーターソンはオランダグランプリの時点で翌年にマクラーレンへの移籍の契約を済ませていたという。

 残り3戦、アンドレッティから12点差で迎えたイタリアGPの決勝で、スターターが全車停止前にスタートランプを点灯させるというミスを犯してしまう。そのため勢いがついたままスタートした後方集団が前方集団を押し出す形になり多重クラッシュが発生し、ピーターソンは事故に巻き込まれてしまった。事故の衝撃でマシンが炎上し、ピーターソンは両足骨折の重傷を負ったものの負傷の内容は命に関わるようなものではなく、マシンから救出された際には意識もあり、普通に会話ができる状態であった。実際事故後に救出され地面に横たわって手を動かしている映像が残されている。


 その後、ミラノの病院に搬送され、骨折した骨を元の位置に固定する手術を受けた。しかし、翌9月11日未明に容態が急変し死亡した。骨折部位より血管に流れ出た脂肪粒が肺・腎臓・脳の血管に詰まり、血液循環を阻害する脂肪塞栓症が命取りになった。ピーターソンの死によりアンドレッティのチャンピオンが決定。その後、ピーターソンのポイントランキングも抜かれることなく、選手権2位が確定した。

 この事故については、後方スタートのリカルド・パトレーゼが原因を引き起こしたとして大きな批判を浴び、イタリアグランプリの次戦のアメリカ東GPへのエントリーを拒否された。しかし、実際には全車が停止する前にスターターがスタートランプを点灯させたため、勢いがついたままスタートした後方集団がパトレーゼを押し出す形になったのが事故の原因と確認され、後日パトレーゼの名誉は回復している。事故発生から救急車が事故現場へ到着するまで10分以上掛かり、この間ピーターソンはコース上に寝かされていた。スタート直後の事故対応法が議論され、メディカル・サポートカーが隊列の後ろについてオープニングラップを周回する救急体制が導入されることにつながった。事故の発生したイタリアグランプリを優勝したニキ・ラウダは、「ドイツグランプリだったらロニーは死なずに済んだ」という意味の発言をしている。これはイタリアの医療のレベルがドイツに比べて低いと見なされていたからである。ちなみにラウダはニュルブルクリンクで開催された1976年のドイツグランプリで大事故に遭い酷い火傷を負ったのだがその際ドイツの進んだ医療に助けられている。ピーターソンの事故死は、スウェーデン国内で大きな社会問題となり、ローマ教皇にモンツァでのレース中止を求める嘆願書が出された。事故の翌年から現在までスウェーデンGPは開催されないままの状態になっている。

 1978年9月11日死去(享年34)


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