ミトロファン・ニェジェーリン



ミトロファン・イワノヴィチ・ニェジェーリン(Mitrofan Ivanovich Nedelin 1902年7月27日生)
 [ソ連・軍人/砲兵総元帥]


 ヴォロネジ州ボリソグレブスク市出身。1920年から赤軍。兵卒から始まり、後に分隊長、政治委員となった。ポーランド・ソビエト戦争に従軍し、後にタンボフ蜂起、中央アジアのバスマチ運動の鎮圧に参加。

 1923年から砲兵部隊に勤務し、同年、トルケスタン戦線軍事政治課程を修了。1925年から中隊政治委員、後に連隊学校政治委員。1929年と1934年に砲兵指揮要員完全化課程を修了し、中隊長、大隊長、砲兵連隊参謀長を歴任。1937年〜1939年、スペイン内戦に参加。帰国後、砲兵連隊長、後に狙撃師団砲兵部長。1941年、F.E.ジェルジンスキー名称砲兵アカデミー附属砲兵上級指揮要員完全化課程を修了。

 1941年4月、キエフ特別軍管区の第4砲兵迎撃対戦車旅団長に任命され、南部戦線で独ソ戦を迎える。事後、第18軍副砲兵部長、第37軍、第56軍の副砲兵司令官、北カフカーズ戦線副砲兵司令官、第5砲兵軍団長を歴任。

 1943年7月から終戦まで、南西戦線(1943年10月から第3ウクライナ戦線)砲兵司令官。バラトン湖北東の敵の撃退に対して、ソ連邦英雄称号が授与された。

 戦後、南方軍集団砲兵司令官(1945年〜1946年)、軍砲兵参謀長(1946年〜1948年)、軍砲兵総局長(1948年〜1950年)、ソビエト軍砲兵司令官(1950年〜1952年、1953年〜1955年)、兵器担当軍事次官(1952年1月〜1953年4月)を歴任。1955年3月、砲兵元帥、特殊兵器担当国防次官。1959年5月、砲兵総元帥に昇進し、12月から戦略ロケット軍総司令官。ニェジェーリンの指揮の下で、ソ連最初のICBM、IRBMが開発・試験された。

 1960年10月24日、バイコヌール宇宙基地で実験中だったR-16のプロトタイプロケットが突如爆発。至近距離にいたために巻き込まれたニェジェーリンを含む少なくとも91名が殉職(一説には約200名)。ロケットの近くにいた人々はすぐに焼け焦げ、遠くにいた人々は火傷を負って死ぬか、毒ガスで死亡した。爆発の炎は50km離れた地点からも観測できたと伝えられる。この実験自体が国家機密だったために、ニェジェーリンの死は「飛行機事故」によるものとして処理され、事故の詳細が明らかにされたのは1990年に入ってからのことだった。

 その後、バイコヌール近くに事故の死者に捧げる記念碑が建てられ、現在でも有人飛行の打上げの前にはロシア連邦宇宙局の職員が訪れている。

 1960年10月24日死去(享年58)





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