ジョン・ボーナム



ジョン・ヘンリー・ボーナム(John Henry Bonham 1948年5月31日生)
 [イギリス・ドラマー]


 イギリスのロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマーで、生前はもとより、その死後もなお、現代のロック・ドラマーたちに多大な影響力を及ぼし続けている名ドラマー。

 ウスターシャー州の小都市レディッチで生まれる。5歳でドラムを始め、空箱とコーヒー缶で作ったドラムセットを使って、憧れのジーン・クルーパやバディ・リッチの叩き方を真似ていた。10歳でスネアドラムを、15歳でプレミア社製のドラムセットを手に入れ、地元のドラマー達からアドバイスを受けながら練習に励んだ。

 ウィルトン・ハウス公立学校を出た後、建設業を営む父親ジャックの下で見習い大工として働きながら、地元の複数のバンドでドラマーとしてプレイする。1964年には、彼にとって初めての本格的なバンド、テリー・ウェブ・アンド・ザ・スパイダースに加入。同じ頃、後に妻となるパット・フィリップスとキダーミンスターで開かれたダンスパーティで出会う。また、バーミンガムのバンド、ザ・ブルー・スター・トリオや、「シーズ・ア・モッド」のヒット・シングルを出したザ・セネターズでもドラムを叩いた。こうして様々なバンドで経験を積むうちに、ボーナムはドラムを本業にすることを決意する。

 1968年当時、解散目前のヤードバーズを率いていたジミー・ペイジは、新しいバンドを結成するにあたり、ボーカリストとしてロバート・プラントを迎える。1968年7月、北ロンドンのハムステッドにおけるティム・ローズのステージでドラムを叩くボーナムを見たペイジは、即座に彼をバンドに加えることを決めた。ペイジ、プラント、ボーナムにジョン・ポール・ジョーンズを加えた新バンドはニュー・ヤードバーズとして1968年の9月に北欧を回り、その後レッド・ツェッペリンと改名して、同年12月から最初のアメリカ・ツアーを行った。

 ボーナムは大変な愛妻家であり、良き父でもあった。あまりにも家庭を愛していたがため、家や家族から離れて長いツアーを行うことを嫌っていた。彼はホームシックと重度の飛行機恐怖症を紛らすためにしばしば深酒をしていたが、彼の酒癖はしだいにひどくなっていった。

 1980年9月24日、ツェッペリンのアシスタント、レックス・キングはオールド・ハイド・ホテルでボーナムと落ち合い、近く行われるアメリカ・ツアーに向けてのリハーサルのためブライ・スタジオに向かおうとしていた。ボーナムは途中で立ち寄ったパブで、シングルで16ショット相当(約473 ml)のウォッカを飲み干し、スタジオに到着してからもさらに飲み続けた。リハーサル終了後、ウィンザーのペイジ宅でパーティが行われたがそこでもボーナムは飲み続け、酔いつぶれてベッドに寝かされた。

 翌日、ツアー・マネージャーのベンジ・レフェヴレとジョン・ポール・ジョーンズがベッドで死んでいるボーナムを発見した。死因は吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死であった。享年32。検死の結果、多量の飲酒により肺水腫を引き起こしていたこと、アルコール以外の薬物反応はないことがわかった。彼の遺体は1980年10月12日に彼の農場近くのラショック教区墓地に埋葬された。

 不慮の出来事で偉大なドラマーを失ったツェッペリンは、同年12月4日に解散声明を発表することになる。

 1980年9月25日死去(享年32)


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